書斎机の椅子にドサリと座るなり、ルシアンはリカルドを問い詰めた。「一体どういうことだ? リカルド。あの女性は何者だ? 自分のことを俺の期間限定のお飾り妻だと言ったのだぞ?」「ええ!? そ、そんなことをイレーネさんは言ったのですか? クッククク……な、なんてユーモアに溢れているのでしょう……」リカルドは可笑しくてたまらず、肩を震わせた。「……何がおかしいんだ? リカルド。俺は今、非常に機嫌が悪いのだが?」机の前で手を組んだルシアンは、イライラしながらリカルドを睨みつける。「あ! も、申し訳ございません! ルシアン様!」「謝罪の言葉などいらない。それよりも今すぐに、どういうことか説明してもらおうか?」「は、はい……ルシアン様。あの女性……イレーネさんの言うとおりです。彼女はルシアン様の1年間という期間限定の妻になっていただく女性です。私が職業紹介所で幅広い範囲で募集させて頂きました。報告が遅くなってしまい、申し訳ございません」「……」その言葉にルシアンは目を見開き、口をポカンと開く。「あの、ルシアン様? どうかされましたか?」「今……何と言った? 俺の期間限定の妻になってもらう女性を、幅広い範囲で募集したと聞こえたが……? まさか、聞き間違いでは無いよな?」右手で額を押さえながら尋ねるルシアン。「はい、聞き間違いではありません。その通りです。尤も幅広い範囲というのは、あくまで距離のことです。一応、条件は絞らせて頂きました。年齢は18歳から23歳。これはルシアン様が24歳だからです。そして未婚で婚約者や恋人がいない女性ということで募集をかけましたので、その点は御安心下さい」「そんなことは聞いていない! 何故、そんな勝手な真似をしたのかと聞いているのだ! 大体、職業紹介所で募集するとは何事だ!」ガタンッ!!ルシアンは怒りのあまり、椅子から立ち上がった。「勝手な真似をしたことは、謝罪致します。ですが、何故私がこのような行動に出たかというと、それは全てルシアン様の為を思ってのことなのです」「俺の為だと……?」「はい、そうです。本日は取引先の商船会社に交渉に行かれたのですよね? 先方は何と仰っておりましたか?」「……マイスター家の当主が決定するまでは……取引を停止したいと言ってきた……情勢を見届けてから考え直すと……」苦虫を噛み潰し
30分後――「待たせてしまったな」「どうもお待たせ致しました」ルシアンとリカルドがイレーネの待つ応接間に戻ってきた。「いいえ、この程度の時間など少しも待たされたうちに入りませんわ」イレーネは立ち上がると、ニコニコしながら返事をする。すると、その言葉にたちまちリカルドは申し訳無さそうに謝った。「そうですよね……本日、既に私は5時間もイレーネさんをお待たせしてしまいましたから……本当に申し訳ございませんでした」「何!? リカルド……お前、彼女を5時間も待たせたのか!? そんな話、初耳だぞ!」驚いてリカルドを見るルシアン。すると、そこへイレーネが声をかける。「いいえ、リカルド様は悪くはありません。私がアポイントも無しに、このお屋敷に伺ってしまったからですわ。色々お忙しい方でいらっしゃるのに……こちらこそ申し訳ございません」「イレーネさん……なんて、あなたは心の広い女性なのでしょう……」感動で目をうるませるリカルド。「いいや、いくら何でも5時間は待たせすぎた。……折角訪ねて来たのに、悪かった。申し訳ない」ルシアンはイレーネに謝罪の言葉を述べる。「いいえ、私なら本当に大丈夫ですから。先程だって、格別に美味しいサンドイッチを頂きましたし。何よりも、これほどまでに素晴らしいお仕事に巡り会えたのですから」「仕事……」(俺との契約結婚が、仕事だって……?)その言葉に何やら釈然としない気持ちがこみ上げてくる。そこへ追い打ちをかけるようにリカルドがルシアンの耳元で囁いた。「どうです? 先程、申し上げた通りだと思いませんか? イレーネさんは完全にルシアン様との結婚を仕事だと割り切っています。これほどピッタリの女性は他におりませんよ?」「う、うるさい。お前は黙っていろ。後は俺が話す」イレーネの手前、ルシアンは小声で言い返すと再びイレーネに視線を移し……まだお互いが立ったままであることに気付いた。「そうだった。いつまでも立たせてしまっていたな。掛けてくれ」「はい、では失礼いたします」ソファに腰掛けたイレーネを見届けると、その向かい側にルシアンは座った。「それでイレーネ嬢。早速本題に入りたいのだが……いいだろうか?」「はい、大丈夫ですが……その前に、一つだけ……お話してもよろしいでしょうか……?」言いにくそうにイレーネが口を開く。「ああ、
「まぁ……。私のような者の為に、このように素敵な部屋を貸していただけるなんてまるで夢のようですわ」イレーネはルシアンとリカルドに案内された客室に入るなり、目を見開いた。高い天井、落ち着いた壁紙には風景画が飾られている。部屋に置かれたベッドも家具も全て高級な物だった。「そうですか? そんなに気に入って頂けましたか?」リカルドは笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。むしろ、勿体ない程ですわ。私ならその辺の納戸でも良いくらいですし、廊下で寝ても構わない程なのですから」「き、君は一体何を言ってるんだ!? 客人にそのような粗末な扱いなど出来るはずないだろう!?」あまりの言葉にルシアンの声が大きくなる。「落ち着いて下さい、ルシアン様。そのような大声を出されてはイレーネさんが驚かれてしまいます」しかし、当のイレーネは全く動じない。「いいえ、大丈夫ですわ。その程度の声が大きいとは少しも思いませんので。実は、私も少し喉に自信がありまして……なんでしたら今ここで大きな声を上げてみましょうか?」その言葉にルシアンは慌てた。「いい! わ、分かった! そんな真似はしなくていい!」「……そうですね……。私が大きな声で叫べば、皆様を驚かせてしまいますね。失礼いたしました」少し残念そうに謝罪するイレーネ。「いや、別に謝ることはない」「本当にイレーネさんは面白い方ですね」眉間にシワを寄せるルシアンに対し、笑顔のリカルド。「とにかく、君は客人なのだ。この部屋は好きに使っていい。それと……今夜は夕食を共にしよう。今後のことで、まだまだ話をしなければならないことがあるからな」「まぁ! お、お夕食ですか……? こ、この私に……?」目を見開き、口元に両手を当てるイレーネ。「あ、ああ……そうだが……?」戸惑いながらもルシアンは頷く。「先程美味しいサンドイッチを頂いたばかりなのに……まさか、お夕食まで出していただけるなんて……本当にお言葉に甘えてよろしいのですか?」「君はいちいち大袈裟な人だな……夕食を提供するぐらい、別にどうということはないだろう?」「いいえ、それでも私にとっては身に余る光栄です。何から何まで、ありがとうございます」ニコニコと笑みを浮かべるイレーネ。ルシアンはイレーネの置かれた状況をまだ何も知らない。そこまで踏み込んだ話をリカルドから聞かさ
19時―― 書斎でルシアンとイレーネはテーブルに向かい合わせで着席していた。「ほ、本当に……こちらのお料理を頂いてもよろしいのでしょうか?」イレーネは並べられた豪華な食事とルシアンの顔を交互に見ながら尋ねる。数えただけで料理の種類は7種類もあった。「勿論だ。……本来なら、ここでワインでもつけるところだが……今夜は大事な話があるから、悪いがアルコールは無しだ」「ワインだなんて……! とんでもありません! 私はお水で結構ですので、どうぞお気遣いなさらないで下さい。まぁ……グラスが素敵だと、普段のお水もとても美味しそうに見えますね」イレーネはグラスに注がれた水を見つめ、そんな彼女を呆れた様子で見つめるルシアン。「イレーネ様……なんと、健気な……それ程までに御苦労されていたのですね……」ある程度の事情は把握しているリカルドが給仕の手を止めて、ハンカチで目頭を抑える。「一体、何なんだ? この雰囲気は……まぁいい。食事を始めようか?」額に手を当て、ため息をつくとルシアンはイレーネに食事を勧めた。「はい! ありがとうございます!」元気に返事をすると、イレーネは早速フォークとナイフを手にした。「ふ〜ん……」イレーネが食事をする様子を観察しながら、ルシアンも料理を口に運ぶ。(少々……というか、かなり風変わりな女だと思っていたが……テーブルマナーは完璧だな。シエラ家なんて貴族は聞いたこともないが、それなりに教育は受けてきたのかもしれない)イレーネを育ててくれた祖父は、彼女がどこへ行っても恥じないように貴族令嬢の行儀作法を身につけさせた。それだけではなく、貧しいながらも学校にも通わせてくれたのだった。「早速だが、イレーネ嬢。食事をしながらで構わないので話をさせてくれ」ルシアンが声をかける。「はい、マイスター伯爵様」笑みを浮かべて返事をする。「リカルドの話によると、君は婚姻届に迷わずサインしたと言うが……本当に構わないのか? この結婚は正式なものではない。期間限定の結婚で、1年後には離婚するんだぞ?」「はい、伺っております。毎月30万ジュエルのお給金を頂ける上、退職金、それに家のプレゼント。そして次の就職先の紹介状まで書いて頂けるのですよね?」「は? 君は一体何を言ってるんだ? 俺はそんなことを聞いているわけじゃない。俺と婚姻して離婚をする
食事会の後――イレーネを先程の客室まで案内してきたリカルドが尋ねてきた。「イレーネさん。着替えの用意はあるのでしょうか?」「着替えですか? いいえ、ありません。もともと日帰りの予定でしたから」「ああ! そうでしたよね!」突如、リカルドが顔を両手で覆い隠した。「あの……リカルド様? どうされましたか?」「申し訳ございません……私を5時間も待っていたせいで、汽車に乗って帰ることが出来なくなってしまったのですよね……? 切符も無駄にさせてしまいましたが……御安心下さい!」突如、リカルドは顔を覆っていた両手を外した。「本日は日当として、イレーネさんに3万ジュエルをお支払い致しましょう。5時間も待たせてしまったお詫びと、汽車代として明日お渡ししますね」「3万ジュエルですか!? ほ、本当にそんなに沢山頂けるのでしょうか?」イレーネの顔が興奮のあまり、赤くなる。「ええ、私の言葉に二言はありません」「ありがとうございます! これで辻馬車を使うことが出来ます」実は今までイレーネは口にはしなかったが、両足に豆ができていたのだ。その足で長距離を歩かなくてすむのだから。「イレーネさん……本当に……うう……あなたという女性は……苦労人だったのですね……」リカルドの目がウルウルし始めた。イレーネに出会ったことで彼は涙もろい青年になっていたのだ。「いいえ、苦労だなんて思っていません。世の中にはもっと苦労している人々が大勢いるのですから。それに本日は最高の仕事に就くことが出来たのですから。今、とても幸せな気分です」あくまで前向きなイレーネ。「イレーネさん……絶対に、1年後……素晴らしい就職先を探してさしあげますね?」「ありがとうございます。リカルド様」そのとき、リカルドはあることを思い出した。「あ、そういえば……着替えの用意が無かったとお話されておりましたよね?」「ええ、そうです。でも平気です。1日くらい同じ服を着ていても」「いいえ、そういう訳にはまいりません。……そうですね。すぐに戻ってまいりますので少しお待ち下さい」リカルドは何かを考えた様子で返事をすると、足早に部屋を出ていった。「……足も痛むし……少し座って待たせていただきましょう」イレーネは客室に備え付けのソファに腰掛けると、静かに待っていた。5分ほど待っていると、大きな衣装ケ
翌朝、6時にイレーネは目が覚めた。「う〜ん……やっぱり、寝心地の良いベッドはいいわね。面接を受けに来ただけなのに、こんな風におもてなしを受けるとは思わなかったわ」ベッドの上で伸びをすると、イレーネは足裏に出来た豆の具合を見た。「……押すとまだ痛いけど、これくらいなら大丈夫そうね」持っていた端切れで手早く足の手当をすると、イレーネは早速昨夜用意してもらったデイ・ドレスに着替え始めた――****――7時約束通り、客室に迎えに来たリカルドと共に2人は誰もいない廊下を歩いていた。「誰もいませんね……?」辺を見渡しながら、イレーネが前を歩くリカルドに尋ねた。「ええ。ルシアン様の言いつけで、この時間他の使用人たちは別の場所で仕事をしています。その……まだイレーネ様を人目につかないように誘導するように言われておりますので」リカルドが言いにくそうに説明する。(どうしよう……気分を害されたりはしていないだろうか……?)心配になったリカルドはチラリとイレーネの様子をうかがう。「なるほど、確かにそうですね。ルシアン様から私のことが正式発表されるまでは、誰にも見られないほうが良いですね」「そうですか? ご理解して頂きありがとうございます」イレーネが全く気にする素振りもなく返事をしたことで、リカルドは安堵のため息をついた。「ところで……イレーネさん」「はい、何でしょう?」「そのデイ・ドレス……良くお似合いですよ?」「本当ですか? ありがとうございます。サイズも丁度良かったみたいです。こんなに素敵なドレスを貸して頂き、感謝しております。後日、きちんとクリーニングしてお返しいたしますね」その言葉に慌てるリカルド。「いえ! そんなことなさらなくて大丈夫です! こちらで洗濯は致しますので」「ですが……それでは申し訳なくて……」「本当に気になさらないで下さい。あ、書斎に到着しましたよ。お待ち下さい」リカルドは扉の前に立つと、ノックした。――コンコン「ルシアン様。イレーネさんをお連れしました」『入ってくれ』扉の奥でルシアンの声が聞こえる。「失礼いたします」リカルドが扉を開けると、すでに部屋ではルシアンがテーブルに向かって座っていた。「おはよう、イレーネ嬢。良く眠れたか?」「おはようございます、ルシアン様……あ、いえ。マイスター伯爵様。
朝食後――イレーネとルシアンは2人きりでリカルドが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。「ルシアン様、一晩の宿と食事まで用意して頂きありがとうございました。これから1年間、誠心誠意を込めてお仕えさせていただきます」背筋を伸ばしたイレーネは真剣な眼差しでルシアンを見つめる。「そうか? ではマイスター家の現当主である俺の祖父に会う際は、しっかり妻の役を演じてもらうぞ? 祖父の信頼を得られて、俺が正式な後継者に相応しいと認められた暁には臨時ボーナスに、さらに給金を上乗せしよう」「本当ですか? ありがとうございます! ルシアン様が後継者になれるように私、精一杯頑張ります!」お金の話になると、遠慮が無くなるイレーネ。それだけ彼女は追い詰められていたのだ。「そ、そうか? ……今まで悪いと思って聞かなかったが……ひょっとすると、君はお金に困っているのか?」「え、ええ……そうなのです……お恥ずかしいお話ですが……」イレーネはうつむき加減に返事をする。「まぁ……普通に考えれば、お金の為に契約結婚に同意するような女性はいないだろうな。何しろ離婚歴がある女性は男性からの評判は…落ちるからな。今後再婚するのも難しくなるだろう…」少しだけ罪悪感を感じるルシアン。だからと言って本当の伴侶を持つ気など、彼には一切無かった。「そのような御心配はしていただかなくても大丈夫です。私の結婚のことで気をもむような身内は誰もおりません。もとより、私のような落ちぶれた貴族を妻に望む男性はいるはずもありませんから。第一、私と結婚しては相手の方に借金を背負わせてしまうことにもなりますので」堂々と自分のことを語るイレーネは、ルシアンの目に新鮮に写った。「唯一の肉親を亡くしていることはリカルドから聞いていたが……君には借金があったのか?」「はい……元々シエラ家は貧しい男爵家だったのですが、祖父が病に倒れてからはお医者様に診ていただくために増々借金が増えてしまったのです。なので本当に今回の雇用には感謝しているのです。借金返済の為に、屋敷を手放そうと考えておりましたので。ルシアン様とリカルド様のお陰で宿無しにならずにすみました。本当にありがとうございます」再び御礼の言葉を述べるイレーネ。だが、その話はルシアンにとって、あまりにも衝撃的だった。「な、何?! それでは君は実家を失うということか?
9時―― ルシアンは書斎でリカルドに尋問していた。「全く……お前は、どうして肝心なことを言わない? イレーネ嬢に借金があって、住む場所も無くしそうだということを何故黙っていた?」「申し訳ございません。ただ、こちらは非常にデリケートな話でありまして……私はイレーネさんのマイナス評価になりそうな部分を伏せておきたかったのです。プライバシーの問題でもありましたし。いずれ、ご本人の口からルシアン様に告げられるだろうと思いましたので……」その言葉にルシアンはため息をつく。「……別に、そんなことで彼女の評価を下げたりなどしない。遊んで自ら借金を作ってしまうような女性では無いことくらい、見て分かったしな」すると、リカルドが意味深な笑みを浮かべる。「おやぁ……ルシアン様。もうイレーネさんの人となりが分かったような口ぶりですね?」「な、何だ? その顔は……?」「いえ、何でもありません。ですが……素敵な女性だとは思いませんか? 外見もさることながら、性格も」「……だが、所詮は女だ」ルシアンは視線をそらせる。「ルシアン様、ですが……」「それよりもだ! どういうことだ? 何故彼女があのドレスを着ていたのだ?」「それは、イレーネさんが着替えを持ってきていなかったからです。でもよくお似合いでした。そうは思いませんでしたか?」「そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、何故彼女にあのドレスを用意した? 他にも女性用の服があるはずだろう?」リカルドを睨みつけるルシアン。「あるのかもしれませんが、女性用の服を管理しているのはメイド達です。彼女たちに用意させられるわけにはいきませんでした。私が準備できたのはあの方が残されたドレスだったからです。その管理を任せたのはルシアン様ではありませんか」「あれは別に保管しろという意味で言ったわけじゃない。全てお前に任せるという意味で託したんだ。そこには捨てておけという意味だってあるだろう?」「そんな……私の独断であの方のドレスを捨てるなど出来るはず無いではありませんか。捨ててほしかったなら、はっきりそう仰って下さい」「……もういい! この話は終わりだ。それで、今肝心のイレーネ嬢はどうしている?」書類の山に目を通しながらルシアンは尋ねた。「はい、『コルト』へお戻りになられました。2日後に必ず戻ってまいりますと話されてお
「凄い騒ぎですね……あれ? あの女性……歌姫のベアトリス令嬢だ。隣に立っている男性はどなたでしょうね?」ケヴィンは騒ぎの方を見つめながら首を傾げる。「ルシアン……様……?」イレーネは今の状況が理解出来ずに呆然と立ち尽くしていた。「イレーネさん? どうかしたのですか?」ケヴィンがイレーネの様子がおかしいことに気付き、心配そうに声をかけてきた。「い、いえ……まさかベアトリス様がいらっしゃることに驚いているだけです」そう、本当にイレーネは驚いていたのだ。「ええ、僕も驚いていますよ。まさか世界の歌姫がこのレセプションに訪れるなんて……それにしても凄い騒ぎですね。でもそれも当然かも……男性と一緒にいるのですから。先程、婚約者が……とか騒いでいましたよね?」その言葉にイレーネの肩がピクリと動く。今やベアトリスとルシアンの周囲は物凄い人だかりで、2人の姿すら確認できない状態だった。それが何だかイレーネは寂しくて仕方なかった。「あ、そういえばイレーネさんは婚約者の方といらっしゃっていたのですよね? 待ち合わせしていたのではありませんか?」「いいえ……婚約者は……たった今いなくなりました」ケヴィンの質問にポツリと答える。「え? いなくなった? それはどういうことです?」「あ、あの。つ、つまりですね。私は彼の婚約者の代理として、出席しました。どうしてもお相手の女性が時間に間に合わないということで……。彼は正式に招待状をいただいておりまして、1人で入場しにくいと相談されました。そこで私が代理で一緒に会場入りしたのですが……」イレーネはそこで一度言葉を切る。「イレーネさん……?」(どうしたのだろう? こんなに寂しげな表情のイレーネさんは初めてだ……)「今、その必要は無くなりました。本当の婚約者がいらっしゃったようなので……ということで、私は帰ることにします」「え? 帰るのですか?」その言葉に驚くケヴィン。「はい。私はもう……必要ありませんので」「ならご自宅まで送りますよ。あの自宅でよろしいのですよね?」ケヴィンはイレーネが心配でならなかった。「え、ええ……」頷きかけ、イレーネは気付いた。(そうだわ……あの家に置かれた写真はベアトリス様だった。つまり、あの家の本来の持ち主はベアトリス様……。リカルド様と結んだ契約は私が1年間ルシアン様
「ま、まさか……ベアトリス? 君なのか!?」ルシアンの顔に驚きの表情が浮かぶ。「ええ、そうよ。2年ぶりね……会いたかったわ。本当に」それは本心からの言葉だった。だが、ルシアンの顔は曇る。「今更……何故俺の前に現れたんだ? 2年も経って……あんな手紙だけで行き先も告げずにいなくなったのに?」「仕方なかったのよ。あの時は色々あったから……だけど、その態度は何? こっちはどれほどあなたを思っていたのか知りもしないくせに。私を責めて、挙げ句にさっき一緒にいた女性は誰なのよ!」自分の立場も忘れて、ヒステリックな声をあげるベアトリス。「何だって? 彼女を見たのか?」ルシアンは眉を潜めた。「ええ、見たわ。とってもチャーミングな女性だったわね? 笑顔がとても素敵だったわ……彼女の悲しい顔が見たくないなら、場所を変えましょう。もしこの場に彼女が戻ってきたら、私何を言い出すか分からないわよ?」「……脅迫するつもりか?」その言葉に、ベアトリスの美しい顔が歪む。「聞き捨てならない言葉ね? かつては、あんなに愛し合った恋人同士だったというのに。何なら彼女に教えてあげましょうか? 私達がこれまでどんな風に愛し合ってきたか……」「やめてくれ!」ルシアンは声を荒げた。「……分かった、場所を移動しよう……」「ええ、懸命な判断ね。それじゃ別の場所へ行きましょう?」ベアトリスは美しい笑みを浮かべると、背を向けて歩き始めた。「イレーネ……」ルシアンはポツリと呟き、イレーネがいる方向を振り返った。(すまない、イレーネ。だが……どうしても君を傷つけたくは無いんだ……)ルシアンは覚悟を決めて、ベアトリスの後をついて行くことにした。ときに激しい情熱をぶつけてくるベアトリス。このままイレーネと鉢合わせすれば、気の強いベアトリスが何をしでかすか分からない。(昔は、彼女のそういう気の強いところが好きだったが……)けれど、今のルシアンはイレーネと過ごす時間が何よりも大切になっていた。明るく天真爛漫な彼女。それでも時折、自分だけに垣間見せる弱さ。そんなイレーネを守ってやりたい。彼女を心の底から笑える様にさせてあげたい。それだけ大きな存在になっていたのだ。(すまない、イレーネ。ベアトリスときっちり話をつけたら、必ず迎えに行くから……どうか、待っていてくれ……!)け
約40分前のこと――顔にヴェールをかぶせ、イブニングドレス姿のベアトリスがレセプション会場に入場した。「ベアトリス、君は今や世界的に有名な歌姫なんだ。時間になるまではヴェールを取らない方がいい」一緒に会場入りしたカインが耳打ちしてきた。「ええ。大丈夫、心得ているわ」ベアトリスは周囲を見渡しながら返事をする。「一体さっきから何を捜しているんだ?」「別に、何でも無いわ」そっけなく返事をするベアトリスにカインは肩をすくめる。「やれやれ、相変わらずそっけない態度だな。もっともそういうところもいいけどな」「妙な言い方をしないでくれる? 言っておくけど、私とあなたは団員としての仲間。それだけの関係なのだから」ベアトリスが周囲を見渡しているのには、ある理由があった。本当は、このレセプションに参加するつもりはベアトリスには無かった。だが、貴族も参加するという話を耳にし、急遽出席することにしたのだ。(今夜のレセプションは周辺貴族は全て参加しているはず……絶対にルシアンは何処かにいるはずよ……!)ルシアンを捜すには、隣にいるカインが邪魔だった。そこでベアトリスは声をかけた。「ねぇ、カイン」「どうしたんだ?」「私、喉が乾いてしまったわ。あのボーイから何か持ってきてもらえないかしら?」「分かった。ここで待っていてくれ」「ええ」頷くと、カインは足早に飲み物を取りに向かった。「行ったわね……ルシアンを捜さなくちゃ」ベアトリスは早速ルシアンを捜しに向かった――「あ……あれは……ルシアンだわ!」捜索を初めて、約10分後。ベアトリスは人混みの中、ついにルシアンを発見した。「ルシアン……」懐かしさが込み上げて近づこうとした矢先、ベアトリスの表情が険しくなる。(だ、誰なの……!? 隣にいる女性は……!)ルシアンの隣には彼女の知らない女性が立っていた。金色の美しい髪に、人目を引く美貌。品の良い青のドレスがより一層女性の美しさを際立たせていた。彼女は笑顔でルシアンを見つめ、彼も優しい眼差しで女性を見つめている。それは誰が見ても恋人同士に思える姿だった。「あ、あんな表情を……私以外の女性に向けるなんて……!」途端にベアトリスの心に嫉妬の炎が燃える。(毎日厳しいレッスンの中でも、この2年……私は一度も貴方のことを忘れたことなど無かったのに
馬車が到着したのは、デリアの町の中心部にある市民ホールだった。真っ白な石造りの大ホールを初めて目にしたイレーネは目を丸くした。「まぁ……なんて美しい建物なのでしょう。しかもあんなに大勢の人々が集まってくるなんて」開け放たれた大扉に、正装した大勢の人々が吸い込まれるように入場していく姿は圧巻だった。「確かに、これはすごいな。貴族に政治家、会社経営者から著名人まで集まるレセプションだからかもしれない……イレーネ。はぐれないように俺の腕に掴まるんだ」ルシアンが左腕を差し出してきた。「はい、ルシアン様」2人は腕を組むと、会場へと向かった。 「……ルシアン・マイスター伯爵様でいらっしゃいますね」招待状を確認する男性にルシアンは頷く。「そうです。そしてこちらが連れのイレーネ・シエラ嬢です」ルシアンから受付の人物にはお辞儀だけすれば良いと言われていたイレーネは笑みを浮かべると、軽くお辞儀をした。「はい、確かに確認致しました。それではどう中へお入りください」「ありがとう、それでは行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」そして2人は腕を組んだまま、レセプションが行われる会場へ入って行った。 「まぁ……! 本当になんて大勢の人たちが集まっているのでしょう!」今まで社交界とは無縁の世界で生きてきたイレーネには目に映るもの、何もかもが新鮮だった。「イレーネ、はしゃぎたくなる気持ちも分かるが、ここは自制してくれよ? 何しろこれから大事な発表をするのだからな」ルシアンがイレーネに耳打ちする。「はい、ルシアン様。あの……私、緊張して喉が乾いておりますので、あのボーイさんから飲み物を頂いてきても宜しいでしょうか?」イレーネの視線の先には飲み物が乗ったトレーを手にするボーイがいる。「分かった。一緒に行きたいところだが、実はこの場所で取引先の社長と待ち合わせをしている。悪いが、1人で取りに行ってもらえるか? ここで待つから」「はい、では行って参りますね」早速、イレーネは飲み物を取りにボーイの元へ向かった。「すみません、飲み物をいただけますか?」「ええ。勿論です。どちらの飲み物にいたしますか? こちらはシャンパンで、こちらはワインになります」 ボーイは笑顔でイレーネに飲み物を見せる。「そうですね……ではシャンペンをお願い致します」「はい、
ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ
「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々
10時――イレーネは言われた通り、丈の短めのドレスに着替えてエントランスにやってきた。「来たか、イレーネ」すると既にスーツ姿に帽子を被ったルシアンが待っていた。「まぁ、ルシアン様。もういらしていたのですか? お待たせして申し訳ございません」「いや、女性を待たせるわけにはいかないからな。気にしないでくれ。それでは行こうか?」早速、扉を開けて外に出るとイレーネは声を上げた。「まぁ! これは……」普段なら馬車が停まっているはずだが、今目の前にあるのは車だった。「イレーネ、今日は馬車は使わない。車で出かけよう」「車で行くなんて凄いですね」「そうだろう? では今扉を開けよう」ルシアンは助手席の扉を開けるとイレーネに声をかけた。「おいで。イレーネ」「はい」イレーネが助手席に座るのを見届けると、ルシアンは扉を閉めて自分は運転席に座った。「私、車でお出かけするの初めてですわ」「あ、ああ。そうだろうな」これには理由があった。ルシアンは自分の運転に自信が持てるまでは1人で運転しようと決めていたからだ。しかし、気難しいルシアンはその事実を告げることが出来ない。「よし、それでは出発しよう」「はい、ルシアン様」そしてルシアンはアクセルを踏んだ――****「まぁ! 本当に車は早いのですね? 馬車よりもずっと早いですわ。おまけに少しも揺れないし」車の窓から外を眺めながら、イレーネはすっかり興奮していた。「揺れないのは当然だ。車のタイヤはゴムで出来ているからな。それに動力はガソリンだから、馬のように疲弊することもない。きっと今に人の交通手段は馬車ではなく、車に移行していくだろう」「そうですわね……ルシアン様がそのように仰るのであれば、きっとそうなりまね」得意げに語るルシアンの横顔をイレーネは見つめながら話を聞いている。その後も2人は車について、色々話をしながらルシアンは町の郊外へ向かった。****「ここが目的地ですか?」やってきた場所は町の郊外だった。周囲はまるで広大な畑の如く芝生が広がり、舗装された道が縦横に走っている。更に眼前には工場のような大きな建物まであった。「ルシアン様。とても美しい場所ですが……ここは一体何処ですか?」「ここは自動車を販売している工場だ。それにここは車の運転を練習するコースまである。実はここで俺も
翌朝――イレーネとルシアンはいつものように向かい合わせで食事をしていた。「イレーネ、今日は1日仕事の休みを取った。10時になったら外出するからエントランスの前で待っていてくれ」「はい、ルシアン様。お出かけするのですね? フフ。楽しみです」楽しそうに笑うイレーネにルシアンも笑顔で頷く。「ああ、楽しみにしていてくれ」ルシアンは以前から、今日の為にサプライズを考えていたのだ。そして直前まで内容は伏せておきたかった。なので、あれこれ内容を聞いてこないイレーネを好ましく思っていた。(イレーネは、やはり普通の女性とは違う奥ゆかしいところがある。そういうところがいいな)思わず、じっとイレーネを見つめるルシアン。「ルシアン様? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。と、ところでイレーネ」「はい、何でしょう」「出かける時は、着替えてきてくれ。そうだな……スカート丈はあまり長くないほうがいい。できれば足さばきの良いドレスがいいだろう」「はい、分かりましたわ。何か楽しいことをなさるおつもりなのですね?」「そうだな。きっと楽しいだろう」ルシアンは今からイレーネの驚く様子を目に浮かべ……頷いた。****「リカルド、今日は俺の代わりにこの書斎で電話番をしていてもらうからな」書斎でネクタイをしめながら、ルシアンはリカルドに命じる。「はい。分かりました。ただ何度も申し上げておりますが、私は確かにルシアン様の執事ではあります。あくまで身の回りのお世話をするのが仕事ですよ? さすがに仕事関係の電話番まで私にさせるのは如何なものでしょう!?」最後の方は悲鳴じみた声をあげる。「仕方ないだろう? この屋敷にはお前の他に俺の仕事を手伝える者はいないのだから。どうだ? このネクタイ、おかしくないか?」「……少し、歪んでおりますね」リカルドはルシアンのネクタイを手際良く直す。「ありがとう、それではリカルド。電話番を頼んだぞ」「ですから! 今回は言われた通り電話番を致しますが、どうぞルシアン様。いい加減に秘書を雇ってください! これでは私の仕事が増える一方ですから」「しかし、秘書と言われてもな……中々これだと言う人物がいない」「職業斡旋所は利用されているのですよね? 望みが高すぎるのではありませんか?」「別にそんなつもりはないがな」「だったら、
「イレーネ……随分、帰りが遅いな……」ルシアンはソワソワしながら壁に掛けてある時計を見た。「ルシアン様、遅いと仰られてもまだ21時を過ぎたところですよ? それに一応成人女性なのですから。まだお帰りにならずとも大丈夫ではありませんか? 大丈夫、きっとその内に帰っていらっしゃいますから。ええ、必ず」「そういうお前こそ、心配しているんじゃないか? もう30分も窓から外を眺めているじゃないか」ルシアンの言う通りだ。リカルドは先程から片時も窓から視線をそらさずに見ていたのだ。何故ならこの書斎からは邸宅の正門が良く見えるからである。「う、そ、それは……」思わず返答に困った時、リカルドの目にイレーネが門を開けて敷地の中へ入ってくる姿が見えた。「あ! イレーネさんです! イレーネさんがお帰りになりましたよ!」「何? 本当か!?」ルシアンは立ち上がり、窓に駆け寄ると見おろした。するとイレーネが屋敷に向かって歩いてくる姿が目に入ってきた。「帰って来た……」ポツリと呟くルシアン。「ほら! 私の申し上げた通りではありませんか! ちゃんとイレーネさんは戻られましたよ!?」「うるさい! 耳元で大きな声で騒ぐな! よし、リカルド! 早速お前が迎えに行って来い!」ルシアンは扉を指さした。「ルシアン様……」「な、何だ?」「こういうとき、エントランスまで迎えに行くか行かないかで女性の好感度が変わると思いませんか?」「こ、好感度だって?」「ええ、そうです。きっとルシアン様が笑顔で出迎えればイレーネさんは喜ばれるはずでしょう」「何だって!? 俺に笑顔で出迎えろと言うのか!? 当主の俺に!?」「そう、それです! ルシアン様!」リカルドが声を張り上げる。「良いですか? ルシアン様。まずは当主としてではなく、1人の男性としてイレーネさんを出迎えるのです。そして優しく笑顔で、こう尋ねます。『お帰り、イレーネ。今夜は楽しかったかい?』と」「何? そんなことをしなくてはいけないのか?」「ええ、世の男性は愛する女性の為に実行しています」そこでルシアンが眉を潜める。「おい、いつ誰が誰を愛すると言った? 俺は一言もそんな台詞は口にしていないが?」「例えばの話です。とにかく、自分を意識して欲しいならそうなさるべきです。では少し練習してみましょうか?」「練習までしな